杵名蛭荘園・庄川扇状地にあった東大寺荘園

杵名蛭村比定図2


近年までその場所が特定されていなかった杵名蛭荘園(東大寺荘園)でしたが、現在の高岡市戸出地域(市野瀬・狼・伊勢領付近)にあったことがわかってきました。


杵名蛭村比定図1


決め手になったのは・・・

(1) 砺波郡二十二条(22条)~二十三条(23条)の位置にあること

 ※ 砺波郡の条里プランは平野の西端を1条をして西から東へ数える。
 ※ 「里」(南北方向)は、石黒上里、石黒中里、荊原上里、荊原里などの固有名詞を使用する。

(2) 足原田(葦原)が多くみられる庄川扇状地の湧水地帯にあること

(3) 砺波郡ではあるが射水郡に近い場所であること

 ※ 他の砺波郡にあった荘園(石粟荘、伊加留岐荘、井山荘)とは異なり、射水郡の荘園(須加荘・鳴戸荘)と同じ田使僧明典・伝燈満位僧憬寵が墾田地図に署名をしている。

(4) 水が容易に得られる早い時期から耕作がが行われていた地域であること

 ※ 他の砺波郡にあった荘園(石粟荘、伊加留岐荘、井山荘)とは異なり、「百姓口分田」の記載がある。

等が、杵名蛭村墾田地図(神護景雲元年)に書かれている情報の詳細な解析によってわかってきました。

img101.jpg
「日本古代荘園(越中国砺波郡東大寺荘園図<金田章裕・田島 公>)」より


従来、杵名蛭荘園は南砺市高瀬あたりではないかという説もありましたが、川の流路などが地形的におかしいかなと思っていました。

今でもその痕跡が見ることができますが戸出地域には南北方向に走る崖(昭和30-40年代頃まで伊勢領には3m近い崖があったそう)があり、杵名蛭荘園の石黒川はその崖に沿った形に流れてるようです。(狼集落の曲がり具合とも一致) この場所での位置比定はとても納得できます。

杵名蛭

「砺波散村地域研究所 研究紀要<第16号>古代荘園図に描かれた自然環境<金田章裕>」より

杵名蛭川 =(室町時代~江戸時代まで庄川本流だった)現在の千保川か。


このあたりは千保川(江戸時代までの庄川本流)流域であり、戸出地域では最も低い場所であることから、古くから人が定住し、何度かの河川の氾濫があり、遺跡・遺物は深い地中に埋まっているのかと思います。杵名蛭(キナピル・kinapiru)は語感的に縄文語由来の地名のようにも思われます。


東京国立博物館

# キナとは、北陸縄文人の言葉で「実用的に使える植物」を指すか。
# 大きな河川に近く、戸出地区内で最も低湿地帯にあたるため地形的にも納得できる地名です。
# 先史時代にも葦などの植物が多く繁茂していたのでしょうか。
# (写真は東京国立博物館考古展示室)


砺波地方の東大寺荘園の成立には利波臣志留志(となみのおみしるし)が活躍しました。
「越中国石黒氏系図」によると利波臣志留志は、孝元天皇の子孫である武内宿禰の系譜だそう。「越中国官倉納穀交替記」にも似た内容があるそうで信憑性も高いらしい。

利波臣氏以外の在地勢力としては、蝮部氏、小長谷部氏、建部氏、物部氏、秦人部、秦氏。
畿内勢力としては、大原真人麻呂、橘奈良麻呂、門部王、恵美比多、石田女王。
寺院勢力としては、東大寺のほか、四天王寺、般若寺などの勢力があったそう。
また、弘仁6年(815)の資料によると杵名蛭荘園の庄長として「船木弟虫」という人物がいたそう。

地域に住んでいた古代の豪族、有力氏族のことは全く教わらない事柄なので面白い。
いつかもっと掘り下げてみたい。


<リンク>
諏訪信仰と北陸の弥生時代



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コメント

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toidegelato

弥生時代の北陸を統治したお諏訪様と諏訪信仰。北方系縄文人と南方系縄文人の違い。北陸における弥生時代のクニ、縄文から弥生への移行過程などに特に関心あり。