2021/02/28 戸出の奈良時代(東大寺領杵名蛭荘園)講演会

グラフィックス1

戸出の奈良時代(東大寺領杵名蛭荘園)講演会、とても興味深かった。

・奈良時代の貴族も農繁期には手伝いで忙しかった。貴族は秋に荘園を訪れていた。
(ただし自ら鎌を持って作業したわけではない。)

・万葉集、大伴家持の歌に見える「【やぶなみ】の里」は高岡市中田地区にあったのではないか。
(東大寺領荘園石粟村地図に【やぶなみ】は石粟村の北と書いてある。)

→ 8世紀の井戸が発見されている常国遺跡=【やぶなみ】が有力か。 荊波、夜夫奈美

・奈良時代の畿内は開墾が進んでいて、北陸地方が大開拓時代だった。だから、現在の富山県域、福井県域などに東大寺荘園が多くつくられた。

・東海地方は台地が多く、北陸地方のほうが米がたくさんとれた。

・明治時代になるまで、東海地方よりも北陸地方の方が人口が多かった、らしい。

・石粟荘園は、757年7月の橘奈良麻呂の変で没収され、東大寺領となった。

・杵名蛭荘園は、誰のものでもない土地(共有地)を東大寺が確保したか、
 または百姓が持っていた口分田を東大寺領としたものか。

・杵名蛭荘園とされた場所でも、現在の戸出町より南側では水田はなかった。
 (水がないところには水田はできない。現在の戸出町市街地あたりが庄川扇状地の湧水池帯だった。)

・プラントオパールに含まれる花粉で当時稲作が行われていた場所かどうかは推測できる。(稲の花粉→田んぼ。ススキ、ヨモギ→未開地)

・杵名蛭荘園ではプラントオパール調査はまだ行われていない。

・荘園があったかどうかは遺跡調査などでもなかなかわからない。硯などが発見されれば有力。

・砺波地方の散居村の成立は早くて鎌倉時代からではないか。
 (奈良時代にはまだ川の近くのみの開墾。庄川扇状地扇央部の開墾は後の時代)


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「地名」について伺った点で個人的に気になったことを以下に書き留めておく。


(学者の意見)↓

・「杵名蛭」の地名の由来はわからない。
・「砺波」の地名の由来もはっきりしない。

「砺」の旧字「礪」は金属を研ぐという意味だから、
古代には地方には鉄を産出し、金属を研ぐ場所があったのではないか。

(個人的意見)↓

「礪波」という漢字は当て字であることがわかっている。

江戸時代より前は「利波」と書かれていた。
前田利家公のお名前を憚って「礪波」と書くようになった。



(学者の意見)↓

・奈良時代の地名はほとんど全く現代には受け継いでいない。
・現代の地名や、江戸時代の書物を参考にして、古代の地名を推測することは危険。

(個人的意見)↓

・同意できる。

・が、中世・近世に付けられた地名も何らかの意味があって付けられたものと思う。
・大和言葉で解釈できない地名は、やはりそれ以前(古墳時代以前)からの先住民の言葉で解釈できる意味を持っていた、と思う。


(学者の意見)↓

・集落に名前がついたのは奈良時代以降で、それ以前は地名はなかった。
・自分の村、隣の村と言っていれば良かった。地名自体不要だった。

(個人的意見)↓

・文献が最も重要だとする考え方は理解できる。

・が、近代まで文字を持たなかった民族であっても地名を持っている。
・帰納的にも、「古墳・先史時代の日本には地名はなかった」とするのは科学的ではないと思う。

・旧石器時代から日本中で交易が行われてきたことがわかっているし、
 縄文時代には既に海を越えて交易も行われてきた。

・自分の集落、隣の集落だけなら確かに地名は不要かもしれないが、遠方のムラ、3つ以上のムラを区別するためには集落名や、狩り・漁をするため、移動の際の目印とするためにも地名は必要だった、と思う。

・やはり地形に基づいた地名が多かった、と思う。

・奈良時代の荘園図に書かれている地名にも由来(意味)がある、と思う。


(まとめ)
地名が好きな私としては、

・日本語の成り立ち(近隣言語との関係)
・富山県・石川県内の地名と東北・北海道地名との共通性
・神社(歳神)の分布

・・・そういったことを研究されておられる学者の意見も伺ってみたい。

「諏訪(スワ)」や「気比(ケヒ)」は弥生時代の統治者由来の名前だと思うし、
「比売・姫(ヒメ)」は弥生時代の巫女由来の名前だと思う。

ということで、
「杵名蛭」「砺波」の地名の由来は相変わらず縄文語由来だと思っている。

詳細はまた別の記事にて

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コメント

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toidegelato

弥生時代の北陸を統治したお諏訪様と諏訪信仰。北方系縄文人と南方系縄文人の違い。北陸における弥生時代のクニ、縄文から弥生への移行過程などに特に関心あり。