戸出の奈良時代講演会、「杵名蛭」は縄文語由来地名か

2021/2/28(日)「杵名蛭荘園と戸出の奈良時代」講演会

高岡市戸出にあった東大寺領・杵名蛭荘園。金田章裕京都大学名誉教授よりお話をいただきます。

高岡万葉歴史館の新谷秀夫課長からは万葉集を切り口にした東大寺や荘園のお話をいただきます。

興味あるかたは是非お越しください。
https://toide.xyz/kinapiru.html

後日高岡ケーブルでも放送予定有
(2021/03/27(土)、28(日)AM9:00から放送される予定です)

また後日、Youtubeでの配信も検討中です。

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とことで、杵名蛭(きなびる)という地名は大和言葉では解釈不能なので縄文語由来だと思う。

富山県一帯は、アイヌ語系言語を話す北方系縄文人が住んでいたことがわかっている。

ということで杵名蛭とは、

kina→茅(今でも"茅場の宮"と呼ばれる神社が近くにある。市野瀬地内)

piru→崖(現地の特徴的な地形である段差約3mの崖があった。伊勢領-市野瀬間)

が由来だと思う。

これはあくまで推測の域を出ないけれど


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弥生中期(BC3世紀~)、氷見、伏木あたりの海岸沿いからに進出してきた稲作文化人。

# 北陸の縄文人も稲の栽培は行っていたことがわかっているが、
# 専らとしては行っていなかった。

弥生後期(AD3世紀頃)、出雲系の稲作文化人が小矢部川・庄川扇状地へ河川沿いに広がっていった。
(「お諏訪さま」とよばれる杉の大木を信仰する「諏訪信仰」と関係がある。)

で、これら「稲作文化の人」と、砺波地方に残る「縄文生活を続ける人々」の並存は数100年間あったと思う。

# 奈良~江戸時代、東北地方でも2つの文化は並存していた。
# 縄文文化直系の日本人は「蝦夷」と呼ばれ、
# 稲作文化の日本人集落の外れに住んでいた。
#
# 江戸~明治時代の北海道でも同じように
# 「蝦夷」とよばれる人は、日本人集落の外れに住むケースが多かった。
#
# 帰納的に、弥生~古墳時代(or奈良時代)の北陸地方の様子も推測できる。

基本的に、噴火や水害や戦などによる集落放棄がないと遺跡としては残らない、と思う。

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コメント

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toidegelato

弥生時代の北陸を統治したお諏訪様と諏訪信仰。北方系縄文人と南方系縄文人の違い。北陸における弥生時代のクニ、縄文から弥生への移行過程などに特に関心あり。