富山県の市町村別諏訪社の分布

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大正13年に出版された富山県内の神社一覧がまとめられた「富山県神社祭神御事歴」を使って、富山県内の市町村別に諏訪社の数を数えてみた。

諏訪信仰とは、お諏訪様が北陸を統治していた弥生時代後期(3世紀後半か)、諏訪神人と呼ばれる遊行者によって広められた、といわれている。

※ お諏訪様は出雲系の四隅突出型墳丘墓を築いた一族と考えられている。

一方、砺波市、南砺市のあたりには弥生時代の遺跡がほとんど無い。


【仮説】
1. 諏訪社の分布
2. 弥生遺跡分布
3. 歴史書(古事記、日本書紀)

上の3つは整合性が取れるハズということを調査してみた。

※お諏訪様(建御名方)は出雲にいたのではなく、信州へ逃れることが可能な北陸を統治していたことの再確認


【結果】

富山県諏訪社分布イメージ
(富山県内 市町村別 諏訪社分布)

朝日町: 10
入善町:  5
黒部市:  4
魚津市:  4
滑川市:  0
上市町:  3
立山町:  8
舟橋村:  5
富山市: 83
(内訳> 大正時代の市部:3、新川郡:63、婦負郡:17)
射水市: 16
氷見市: 38
高岡市: 60
(内訳> 大正時代の市部:1、射水郡:21、氷見郡:3、東礪波郡部:4、西礪波郡:31)
小矢部市:29
砺波市:  8
南砺市:  3
----------------
富山県合計:276柱

※青色の濃さは感覚的ななんとなくの弥生人人口密度


【諏訪社の分布結果について】

1. 富山市の平野部に最も多く集中している。

 北陸最大の四隅突出型墳丘墓群が見られる呉羽山丘陵南西端と関係があるか。

 ※弥生時代中期(姉倉姫が富山平野を統治したと思われる時代)も富山市の平野部に多くの弥生人が入植していたらしいので、「越の大乱」以降、出雲勢力であるお諏訪様がそのままこのあたりを統治することになったのかもしれない。

2. 2番目に多いのは高岡市。平野部に多い。

 山間部は少ないが西広谷や、国吉地区では山間部にも存在する。

3. 3番目に多いのは氷見市。海沿いから平野部にかけてが多い。

 山間部は比較的少ないが、熊無、久目、余川、碁石など山間部にもある。

4. 下新川地方では朝日町に多い。

 縄文時代から日本一の産地であった朝日町(ヒスイ海岸)の翡翠は、
 弥生時代にも重要産品だったため、早くから弥生人が多く入植していたのか。

5. 南砺市の「3」は全て(平成合併の際の)旧福光町地域。
 
 弥生時代、古墳時代の遺跡がほとんどない南砺市、砺波市では、諏訪社も予想通り少なかった。

6. 富山市、高岡市の市街地部には少ない。


【全県的なまとめ】

1. 「四隅突出型墳丘墓群」が近い婦負郡に、もう少し多く分布しているかと思っていた。が、ほぼ予想していた通りの結果だった。

2. 弥生時代後期、現在の氷見市、高岡市、射水市、富山市の平野部を中心に弥生人の入植地が広がっていたよう。

3. 氷見市、高岡市では山間部への進出もみられる。弥生人は出雲から能登半島を回ってやってきたため、能登半島に近いところが住みよかったのかもしれない。

4. 高岡市では南は戸出あたりまで。富山市では南は船峅あたりまで。

※戸出地区では、北端の伊勢領北遺跡のみが「弥生・古墳時代」とされ、他の遺跡は古代以降とされている。が、諏訪社はたくさんある。なので、飛鳥・奈良時代以降の時代にあっても、元の集落から出て、開墾するために新しい土地に移り住んだ人たちが作った集落に「諏訪社」が勧請された可能性がある(高い)。

5. 弥生時代後期はまだ、砺波市、南砺市、滑川市、魚津市、黒部市、上市町あたりには弥生人はほとんど入って来なかった。弥生人が入ってこなかった地域では、依然として縄文人のコミュニティが存続していたと考えられる。

3世紀、弥生人vs縄文人
(3世紀後半の富山県における、弥生人vs縄文人勢力図 ver.1)


※富山県東部についてはまだ地名、地形が頭に入っていないので、私の分析はちょっと不正確かもしれません。


<追記>

砺波市、南砺市では弥生時代だけでなく古墳時代の遺跡もほとんど無い。

ということは、飛鳥・奈良時代になるまでの期間、

富山県において縄文人と弥生人が並行して存在していた期間が数百年程度あったのでは?

・・・とも思いましたが、
今日、砺波市埋文の学芸員のかたに「それはない」と教わりました。

縄文土器の炭素年代測定でそんな時代はないことがわかっている、とのこと。

弥生時代~古墳時代、砺波市、南砺市は
確かにほとんど人のいない空白地帯だった、とのこと。

(こんな地域は富山県内でここだけ。
 滑川市あたりにも古墳がたくさん出ている、とのこと。)


砺波市、南砺市には弥生人はほとんど進出して来なかったのに、
 なぜ縄文人は絶滅してしまったのか!?


謎です。すごく気になる。

仮説として、
「砺波地方に住んでいた縄文人たちは稲作文化の素晴らしさを知り、
 高岡市あたりに移住して、弥生人になったのではないか?」
と。

確かに東北地方の続縄文時代の人々は稲作文化を受け入れたかもしれないが、
ちょっと違う気がする。

先祖代々1万年以上受け継いできた価値観をそんな簡単に捨てられるものなのか。

もし、縄文人が弥生人になっていたのなら、
富山県民の顔つきはもっと今頃、
「(北方系)縄文」っぽい(彫りの深い)人の割合が多いんじゃないかなぁー。

現代日本人の縄文人遺伝子の割合は13~16%くらいらしいので、
そんなものなのかなぁー。


3世紀後半頃の、砺波市・南砺市あたりの縄文人は、
松原遺跡あたりを中心に、山間部の人口も含めて数十人くらいか?
(もっと少ない?紀元前からほとんど縄文人はいなかったのか??)

弥生人から攻撃されて、俘囚にされて、強制的に弥生人のシステムに組み込まれた、
とかのほうが考えられる気がする。

自主的に縄文人が伝統文化を放棄したとは考えにくいなぁ・・・。


正直よくわからない。専門家の人に謎を解いてほしい。

すごく気になる。


<追記2>

諏訪神社の分布
「富山県周辺における風祭と風鎌について(田上善夫)」より


全国の諏訪神社の分布図を見つけたので引用させていただきます。

諏訪信仰は風祭とも関係があるのかもしれません。

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コメント

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toidegelato

弥生時代の北陸を統治したお諏訪様と諏訪信仰。北方系縄文人と南方系縄文人の違い。北陸における弥生時代のクニ、縄文から弥生への移行過程などに特に関心あり。